原発のことで、捨て目を効かせる

 いつも原発の状況が頭のすみにある。何か急務な仕事があって集中している時も頭のすみのほうでカチカチと思考が処理されていて、少し質の違う情報があるとマスコミだけでなく、モニタリングデータや自由報道協会、海外メディア(NYT)をチェックしてまた仕事に戻る。

 最近毎日こんな感じだ。原発の心配がなければもっと仕事がはかどると思う意識と、ことの重大性を考えてちまちました日常業務をやっている場合なのかという意識がいつも交錯しながら日日が過ぎている感じだ。

 戦争中の市民というのはいつもこんな感じで生きてたのだろうなと思う。いつも緊張感のある状態だっただろうと。

 中島誠之助さんの「鑑定もの」を読んでいると、掘り出しものを見つけ出す目、<捨て目>という言葉が度々出てくる。骨董業界の用語のようだ。蔵や市で骨董を探すとき掘り出しものが視野の角のほうでチラリと見えることが多いと言う。だからいつも<何かないか>と感覚を澄ませておく必要があると。見るという行為に緊張感をもたせているわけだ。

 いつもアンテナをはって何気ない情報から意味ある情報を取り出すという作業は、僕のような事業開発や市場開発をやっている人間にとって欠かせない態度であろう。この原発の状況、早く解消してほしいが、私のような開発仕事ならば、いつもこういう緊張感のある態度でいたいと思う。